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私の巡礼の年(島原半島原城跡編)(長崎キリシタン世界遺産)【ヒメアカタテハ、ヤマトシジミ、ナミアゲハなど】 [長崎県]

長崎県の海岸にいる「海のクロツバメ●ジミ」(略してクロ)を探しながら島原半島まで来ました。
島原半島にある「原城跡」は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界文化遺産に登録されました。
島原半島でクロを探す旅は「島原半島ジオパーク編」で報告させていただくことにしますが・・いつのことになるやら。

01天正遣欧少年使節.jpg

長崎の空の玄関口、長崎空港へ行く道は、海の中に続く長い橋を渡ることになります。その橋の袂に天正遣欧少年使節の4人の銅像が建っていました。4人の少年はいずれも島原半島にあった有馬セミナリヨ(キリスト教の神学校)の出身で、広い海を渡って、遠くヨーロッパで活躍した初めての日本人かも。

02口之津ポルトガルの宣教師.jpg

島原半島にある天然の良港、口之津港には、ここに南蛮船で入港した巡察師ヴァリニャーノ神父の胸像が建っていました。巡察師ヴァリニャーノは、有馬氏などキリシタン 大名の庇護のもと、キリスト教の布教を目的とした日本人宣教師を養成するため、島原半島にセミナリヨやコレジョを開校しました。そして有馬セミナリヨの学生から選ばれた4人の少年を遠くローマまで連れていきました。

03有馬セミナリヨ跡.jpg

有馬セミナリヨ跡に着きました。天正遣欧少年使節の少年たちがここで学んでいたと思うと感慨深いものがあります。目を閉じて耳をすませば、少年たちが歌う聖歌が天使の歌声のように聞こえてきました。

04有馬&安土セミナリヨ.jpg

昔、近江(滋賀県)にある安土城の城下町には、有馬セミナリヨと同じ神学校の安土セミナリヨが建っていました。現在、安土セミナリヨがあった跡は公園になっていて、解説板が立ってました。その解説板によると左上の施設が有馬セミナリヨ、左下が安土セミナリヨのようです。

05安土セミナリヨ跡.jpg

安土セミナリヨ跡の公園です。安土セミナリヨは、織田信長が本能寺の変で亡くなると暴徒の略奪等にあって破壊されてしまったようです。

06MOA美術館洋人奏楽図.jpg

熱海市にあるMOA美術館の至宝の一つに「洋人奏楽図屛風」(国重要文化財)があります。ものすごく美しい絵ですが、描かれている人物がなんか日本人っぽいです。それは桃山時代に日本で日本人が油絵具を使って描いたからだそうです。この絵が有馬や安土のセミナリヨで学んだ宣教師のたまごが描いて、このような綺麗な状態で残っていたとしたら、それだけで感激ものです。

07有馬セミナリヨヒメアカタテハ吸蜜.jpg

有馬セミナリヨへの道の脇にある畑で、ヒメアカタテハが吸蜜していました。

08有馬セミナリヨヤマトシジミ吸蜜.jpg

同じくヤマトシジミも吸蜜していました。

09加津佐セミナリヨ・コレジョ跡.jpg

南島原市の加津佐にもセミナリヨやコレジョの史跡があります。作家の司馬遼太郎さんも「街道をゆく」の中で、この史跡を探したように描かれていますが、私も探して、やっとさ、とうちゃこしました。加津佐コレジョには天正遣欧少年使節一行が持ち帰った活版印刷機が置かれ、西洋の印刷技術と絵画文化が日本もたらされたようです。

10日野江城の山.jpg

数年前、キリシタン大名有馬氏の居城「日野江城」跡にも行ってきました。日野江城は、今回の世界文化遺産の選から漏れましたが、キリシタン大名の有馬氏の栄華を物語る城です。有馬氏は4万石の小大名ですが、キリスト教の布教を引き換えに南蛮貿易で莫大な収益を得ていたようです。

11日野江城発掘調査現場.jpg

訪問した当時、日野江城は世界文化遺産の登録に向けて発掘調査の真っ最中で、調査をしている方から日野江城のことについて、いろいろと教えていただきました。ここからは豊臣秀吉と繋がりがある金箔が施された瓦が掘り出されているそうです。

12日野江城石垣.jpg

日野江城を築城するにあたって、石垣にはキリスト教布教のため破壊された仏教寺院の石灯籠などが使われていたようで、例えば真ん中にある六角形の石垣がそれのようです。

13日野江城墓石を使った石段発掘現場.jpg

本丸に向かう階段にも仏教寺院の五輪塔の石などが使われていたようです。右下第2列目の四角の石は、そのような痕跡(梵字)が石に刻まれていました。その後、この発掘現場は埋め戻され、今はこの階段を見ることができないようです。

14南島原有馬キリシタン遺産記念館内部.jpg

日野江城跡や原城跡で発掘されたものは、南島原市の有馬キリシタン遺産記念館で見ることができます。学芸員の方が詳しく解説してくれるのでオススメポイントです。

15キリシタン 記念館クロマダラソテツシジミ静止.jpg

有馬キリシタン遺産記念舘の前庭のソテツの木にいたのはクロマダラソテツシジミでした。もともとは南の島のチョウでしたが、この旅行中、普通に見ることができました。

16キリシタン 記念館ナミアゲハ吸蜜.jpg

有馬キリシタン遺産記念館からの帰り道。田んぼの畔に咲いていた曼珠沙華にナミアゲハが吸蜜に訪れていました。

17原城跡入口.jpg

いよいよ「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「原城跡」に到着です。島原・天草一揆の出来事は長くなりますので、その筋の書籍やホームページ、ブログ等を参考にしていただければと思います。

19原城二の丸から本丸.jpg

原城の二の丸跡は畑に利用されていました。二の丸跡を横切る道からは有明海と本丸跡の石垣が見えました。原城は三方を海に囲まれ、本丸には高い石垣が築かれていたので、難攻不落の城だったようです。

20原城本丸.jpg

原城の二の丸跡から見た本丸跡です。江戸幕府は二度とこのような一揆が起きないよう原城を徹底的に破壊したそうですが、意外と石垣が残っているじゃん。

21ほねかみ地蔵.jpg

二の丸跡と本丸跡の境に石のお地蔵様が建っていました。島原・天草一揆で籠城した老若男女3万7千人はみな殺され、幕府軍も相当な死傷者が出たそうです。一揆の後、当地の僧侶や住民が戦闘で亡くなった人の遺体を敵味方の区別なく埋め、供養のためのお地蔵様を建てたそうです。お地蔵様は、ほねかみ地蔵というそうです。

22ヒガンバナナミアゲハ飛翔.jpg

ほねかみ地蔵の前にヒガンバナが咲いていました。その花にナミアゲハが訪れていました。

23モンキアゲハ飛翔.jpg

モンキアゲハも飛んでいました。

24原城本丸天草四郎の墓.jpg

本丸跡には一揆の指導者の天草四郎の墓がたっていました。島原・天草一揆の終結後、江戸幕府は徹底したキリシタン弾圧を行いました。そのためキリスト教信者は長崎県各地に潜伏して信仰するようになったそうです。

25原城本丸広場.jpg

本丸跡に植えられているジュウガツサクラの枝先にチラホラと花が咲いていました。

26原城から雲仙.jpg

本丸跡から二の丸跡ごしに今は静かになった雲仙岳が見えました。

28三人.jpg

本丸跡の外れに天草に向かって人の石像が立っていました。一人目は外国人宣教師、真ん中は天草四郎っぽい若武者、3人目は女性像のようでした。天草を故郷とする天草四郎。その哀愁を誘うような石像です。

29原城モンキアゲハ吸蜜.jpg

本丸跡の一画にキバナコスモスが咲いているお花畑があり、様々なチョウが吸蜜に訪れてました。モンキアゲハもその一つです。

30原城アカタテハ吸蜜.jpg

アカタテハも熱心に吸蜜していました。

31原城ナミアゲハ飛翔.jpg

青空をバックにナミアゲハの飛翔をパチリ。

32原城リュウキュウムラサキ吸蜜.jpg

南の島から飛んできたと思われるリュウキュウムラサキがキバナコスモスで吸蜜していました。

33原城リュウキュウムラサキ静止.jpg

「ようこそ。南の島から広い海をこえて島原まで飛んで来てくれました。」リュウキュウムラサキに語りかけました。
「はるか昔、ここから大きな海を渡って欧州まで行った少年たちがいることを忘れないで・・」リュウキュウムラサキも私に囁きかけてきたようでした。
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ぜふ

クロちゃんはざんねんだったようですが、リュウキュウムラサキに逢えてよかったですね。
もう普通にいるのでしょうか。

by ぜふ (2018-08-03 20:09) 

あさぎいろ

ぜふさん。
シロやアカ、そして別のクロは見かけるのですが、会いたいクロはなかなか姿を現してくれません。
今回見かけたリュウキュウムラサキ2頭はいずれもオスで、メスがいないと、いずれは・・。
by あさぎいろ (2018-08-04 07:05) 

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